モルネーゼの歴史
2022/02/12 | VIDES
サレジアンシスターズの起源の地であるモルネーゼについて、あまりまとまった資料がなく、その歴史について語られる場面は少ないと思います。
そんな中、サレジアン・シスターズの教育施設で、その精神を知り、実社会の中で活かしていこうとする同窓生のグループである、UNIONEの皆様が、サレジオ家族担当中央評議員、Sr.レスリー・サンディゴ・オルテガからの誘いで、「モルネーゼ バーチャル巡礼」を実施されています。(2022年2月現在)
これを機に、“Mornese : Daughters of Mary Help of Christians, Italy”を参考に、モルネーゼの歴史とされ事案シスターズの前史を、簡単にまとめてみました。
・起源
「モルネーゼ」という名前の起源は、”mulio, mulionis”というラテン語で、ロバを引いて運転をする人のことを表しているようです。
この言葉は、当時内陸をロバで移動する商人のことを表しています。また、この後のモルネーゼの土地が、こうした商人たちやジェノヴァ家の先祖によって所有されることになります。
マリア・マザレロが幼少期を過ごした場所であるMazalelliも、Mazalelloの複数形になっていて、当時から頻繁に見られたもので、おそらく力を持っていた1家の苗字からとられた名称の場所でした。
その証拠に、Mazarelliには、”Mazzarelli di qua” (こちら側のMazarelli)、”Mazzarelli di mezzo” (中央部のMazarelli)、 “Mazzarelli di là” (反対側のMazarelli)という名前がついていました。
小さなチャペルが近くにあり、1843年に祝別され、その後も1964年にモルネーゼの共同体の協力で立て直しが行われています。
・The Valponasca
この場所は、マリア・マザレロが自分の召命について考えるようになった場所で、その部屋の窓からは、教区の教会を眺めることができました。
この窓から、家族は祈りを捧げていました。
それまで、マイン(マリア・マザレロの幼少期の呼び名)はお父さんの仕事を手伝うのが主要な生活スタイルでしたが、妹のフェリチタが成長し、その役割を負うことができるようになった結果、マインの生活は変わっていき、落ち着いた生活を送る日々もありました。
その中で、召命への感覚も養われたのでしょう。
・都市部への移動
1858年、Valponascaに強盗が入り、財産が奪われてしまいました。
その結果、家族全員が都心部に新しい家を借りて生活をしなくてはならなくなってしまい、ブドウ畑も手放すことになりました。
その後は、聖堂が家から近くなったことから、マインは頻繁にミサに預かることができると考え、こうした困難も乗り越えようとしていました。
・チフスの流行
その後、さらなる困難がありました。
チフスが大流行し、マインはその状況を見かねて、当時教区の指導司祭であったペスタリーノ神父に願いを出し、自分も看病をしに町へ出ることにしました。
父親に大きな反対がありましたが、マインはそれでも決断をし、働きに出かけました。
その結果、自分自身もチフスにかかってしまいます。
・仕立屋VALENTINO CAMPI
しかし、その苦しみの中で、マインは自分の召命を見つけます。
VALENTINO CAMPIという仕立屋を見て、自分が裁縫をさらに上達させれば、それを人に教え、役に立つことができると考えました。
そして、町にいた女の子に、裁縫を教え、彼らの成長のためになることを考えました。
友達のPetronilla(ペトロニッラ)とともに、その事業を1861年に開始しました。
・THE ORCHARD PATH
このTHE ORCHARD PATHは、1486年からある教区教会に直接繋がる道で、途中に豊かな自然が広がる小道です。この道を歩いている時に、マインはペトロニッラに、女の子たちに裁縫を教えるアイデアを思いついたとのことです。
その後、マインは子供たちとともに裁縫学校を拡大し、徐々のその共同体を大きくしていきます。
・ペスタリーノ神父の尽力、学校の建設
1864年、ペスタリーノ神父は、ドンボスコの認可のもと、モルネーゼに男の子のための学校を建てました。
しかしその後、1872年、ペスタリーノ神父がマインが率いる女性共同体が居場所を必要としているということを、ドンボスコに伝え、その学校は女の子のための学校となりました。
今でもモルネーゼのBorgoalto(ボルゴアルド)にあります。
※参考
Mornese : Daughters of Mary Help of Christians, Italy
http://www.mornese.pcn.net/eng.html